今や、各メーカーがしのぎを削って開発にいそしんでいる自動運転自動車。
自動車という言葉自体が自動運転を示唆している気もするが、いわば今の自動車は手動自動車、あるいは他動車という所か。
暴走事故や飲酒運転、無免許やドラッグ中毒、重い病気の発作など健康では無い状況での運転による悲惨な事故が報道される度に、「自動運転であれば防げたのに」という願望が生まれるのかもしれない。
この様な痛ましい事故を減らす解決策が自動売買だという意見には甚だ疑問を感じ得ないが、その点はまた別の機会に書くとして。
自動運転もスマホやテレビと同じ事になる。
かつて日本のお家芸だった最先端家電。これらの主導権が中国や韓国に移って久しいというのは周知の事実。
家電がアナログ全盛の頃であれば、職人の飽くなき努力で技術に差をつける事も出来ていたが、ことデジタルが主流になってくると、誰でも部品を組み合わせることで同様の製品を作り上げることが出来、またデジタルならではの利点として、長い経験に裏付けられた職人技という日本人特有のスキルが無くても、簡単にコピーできてしまうという事も有り、リーマンショックで萎縮した日本企業にあっという間に取って代わってしまった。
皮肉なことに、安い製品を作るために単純作業を委託していた海外の製造企業が世に出した製品に駆逐される形になり、まさに「軒を貸して母屋を取られる」ことわざの通りになってしまったのが、液晶テレビやスマホなどに代表されるデジタル製品だろう。
この様な流れを目の当たりにしているので有れば、これと同じ事が、同じくデジタルデバイスで成り立っている自動運転にも起こり得ると言うことは、誰にでも容易に想像が付くことだろう。
今や、自動運転は日本だけではなくドイツやアメリカでも実際に市販車にも投入されつつある、身近な最先端技術では有るが、先行して開発すればするほど優位に立てると考えるのは、あまりにお目出たい思考だと言える。
とある国では、「基礎技術に心血を注ぐのは愚か者だ」という認識も有るらしい。本当に形になるかどうか分からない物に時間とお金を掛けるのでは無く、実際に形になってからその技術を盗むなり買うなりすれば良い、という発想だが、これはある意味で合理的であり、現時点でも既に徹底的に実践されていることがいくらでも確認できる。